量子的裂け目こそ因果律

映画や小説の感想をあくまで私個人の視点からまとめています。

メタルギア ソリッドV ゲームの域を超えた傑作

  • メタルギアソリッドの名を知らない人はこのページを見ようなどとは思わないだろう。だからここでメタルギアソリッドシリーズが何かという話は全て省く。ここで語るのはメタルギアソリッド5(以下MGSV)とは何を描いた作品だったのかというのを、私の視点でまとめたものだ。なので今批評は多量のネタバレを含んでいる。

なぜそんなものを書こうかと思ったのかと言うとMGSVが描く優れた芸術性が余りに謙虚であるためかそれに気づく人が少なかったからに他ならない。MGSシリーズを手がける小島秀夫監督という人物もとても謙虚で、彼のツイッターや書籍を見て思うことは、他作品を褒めることはあっても批判は一切しないという印象だ。そのことに関しての良否は意見が別れるだろうが、重要なのは、果たして小島監督の内側には本当に他作品への否定的な感情がないのだろうかという部分にある。答えを言えば、必ずある。でなければこんな作品は描けない。ネットの評判を見てみると「未完成」「唐突に終わる」といった評価が散見されるが、結論から言うとこの2つの評価はMGSVの価値を落とすに値しない。それどころか今作品を昇華する要素にすらなっている程だ。

MGSシリーズを好評するプレイヤーの言葉に多いのは「映画みたい」「ストーリーが面白い」というのが多いが、それは間違いではない。しかしここに小島監督のいやらしさがある。上記の感想はかなり漠然としたものだが、多くの人が映画やゲームで重要視しているのは主に漠然としたその2つなのだ。そして、そうした人がMGSの描く奥底に隠された芸術性にまで視点が届くことはあまりない。だがMGSVはそうした表面上の快感原則に留まるような作品ではないこともまた事実である。

ここから分かることは、恐ろしいことに小島監督は作品の表面に描かれている「映画のような」「ストーリーが面白い」という快感原則のみに従う人々も、芸術性や文学性を欲するあまり、自ら深淵に足を踏み入れることを良しとするような人間すらも巻き込んでしまう、非常にいやらしいゲームを作っているという事実だ。

そしてそれは必要なことだった。

MGSVとは、作品の表面しか見ていない人間も、その奥底に潜む文学性を見出す人間の両方が手にとって、初めて完成する作品だったのだから。

"ヴェノム・スネークとプレイヤー"
主人公はプレイヤー自身というのは昨今のゲームにおいては既に珍しいものではない。だが、実際のところ主人公は自分自身なのだと信じて画面上のキャラクターを操作しているプレイヤーは非常に少ない。ネットに並ぶ感想を見ているとそれがはっきりとしている。というのも、主人公の視点で作品を語っているレビューなどまず見ることがないからだ。そしてそこには、物語の主人公とそれを操作するプレイヤーの乖離、決して混じることのできない境界線がいくつも存在していることに気付かされてしまう。

ならMGSVのヴェノム・スネークはどうだったのか。結論から述べると、ヴェノム・スネークとプレイヤーはこれまで世に出てきたどのようなゲームよりもプレイヤーとシンクロしている。我々の想像を遥かに超える驚くべき手法によって。

ヴェノム・スネークが劇中で感情的になったり、自身の考えを話すという描写は驚くほどに少ない。これまでのMGSシリーズにあった、無線でベラベラと話すスネークの陽気な一面を知っていれば、ヴェノム・スネークの沈黙は違和感を感じただろう。しかし彼はしっかりと感情を露わにしている。その描写はどこにあったか?

実は彼が感情や思考を巡らせている瞬間とは、それを見ているプレイヤー自身が感情的、思考を巡らせていたときのみにある。コードトーカーとの会話の中、ヴェノム・スネークが自身の考えを述べるシーンは全くない。だがこれは、プレイヤー自身が感じたことがそのままヴェノム・スネークの思考になるように狙って演出されているのだ。

離別の声が記録されたクワイエットのテープ。妄想でしかなかったパスの生存。そのどのシーンにもヴェノム・スネークが感情を露わにするシーンは存在しない。それらイベントに何を感じたのか。それはプレイヤーに委ねらるように演出されている。

重要なのは、ヴェノム・スネークとは我々プレイヤーの分身などではなく、我々自身だという点だ。

MGSVの物語の真価はこれを理解していることが最低条件にある。これを理解していることで、ムービーシーンの一つ一つが大きく意味を転じることになる。

"ファントムペインとは何か"
副題でもあるファントムペイン幻肢痛と言われるこれは、実際に戦闘で負傷した兵士に見られる症状だ。例えば、地雷を踏んで膝から下がまるごと吹き飛んでいるにも関わらず、脚ではなく足の指が痛いと呻く患者が多数いた。救護員はその痛みをどうにかしてやりたいのだが、指どころか膝から下が全てないのだからどうすることもできなかったという。存在しないものに痛みを感じることに因んで、それは幻肢痛と名付けられた。

MGSVにおいて、幻肢痛は作品のテーマに大きく関わっている。腕を失くしたミラーは腕の痛みを訴えている。だが、小島監督が秘めたファントムペインの真意とは、腕を失くしたミラーやスネークの域に留まらない。真に幻肢痛を感じていたのは我々自身なのである。

MGSVとは虚構である。創られた物語であり、登場人物も実在しない。にも関わらず、私たちはこのMGSVから痛みを感じずにはいられない。

クワイエットが永久に離脱したとき、大きな悲しみが私を襲った。
ビッグボスから真実を告げられたとき、大きな怒りを感じた。
スカルフェイスを打倒し、その次に何が起きるのかと構えていたものの、復讐の先には何も(物語が)ないことを悟り、大きな不満を感じた。
クワイエットもビッグボスもスカルフェイスも虚構であるに関わらず、私の内には激しい感情の奔流が迸っていた。
つまりファントムペインとは、復讐を果たしたヴェノム・スネークの虚無感や喪失感、更にはこのゲームを遊ぶ我々プレイヤーが感じていた痛みそのものを指している。
小島監督は明らかにそれらを狙って製作している。彼の目論見通り、ネットにはMGSVに不満を募らせたプレイヤーのファントムペインの叫びで埋まった。それはこの商品のレビューを見てもらえれば存分に分かるだろう。

これらを見ているとMGSVがゲームとプレイヤーの境界線を取り払い、メタ要素をそれと気付かせないような努力で満ちていることがとてもよく見えてくる。虚構そのものが現実に生きる我々に介入してくる様は、まさに至極のSF体験と言えるだろう。そうとは知らずにファントムペインに悶え苦しんでいたプレイヤーほど、知らず知らずに極上のSFを体験していたことになる。

"核兵器が抱く魔性"
人は過剰なパワーを求めずにはいられない。今作では核兵器の作製が可能となっており、プレイヤーはそれを奪い合い、破棄するか、作製するかの選択を委ねられる。ゲームにおいて核兵器はプレイヤーにどのようなメリットをもたらすか?
MGSVを遊んだ方なら知っているだろうが、何もメリットはない。使用することもできないし、破棄か作製の二択しか存在していない。
事実、現代において核兵器とは作製されることはあっても使用することは許されないというギャグのような兵器である。もし核兵器をぶっ放す国が現れたとすると、その国はその他190カ国以上ある世界全てを敵に回すことになるだろう。

MGSVにおいてもそれは同じで、作製と破棄をすることはあっても発射の選択肢は存在しない。そもそもスネーク率いるダイアモンドドッグズに国単位の敵など存在しない。敵はアメリカという国の、サイファーという組織から分裂したXOFというスカルフェイス率いる非公式組織なのだから、戦略的に核兵器など何の役にも立たない。

では、それが分かっていた上でプレイヤーはどういう選択をしたか?

実は多くのプレイヤーが核を持ち、大量の核兵器がネット上で作製され続け、その数は数億個に及び増え続けたのだ。

世界中のプレイヤー(ヴェノム・スネーク、つまりは復讐の鬼)は行使することもできない過剰なパワーで武装することに何の躊躇いも見せなかったのである。

これは小島監督のいやらしい側面(褒め言葉)が最も如実に現れた部分である。MGSVというゲームを用いて、使用が許されない過剰な力を持つ自由を個人に与えると人はどのような選択をするのかというのを見たがった、小島監督の社会的実験である。よくもまぁこんな事を考えたものだと感心してならない。

小島監督はMGSシリーズを通して核兵器が孕む抑止力の幻想や、その危険性を痛烈に批判し続けている。だがMGSVを通して、核兵器の増大を止めることなどは不可能だったのだと、皮肉にも自ら証明した。そしておそらく小島監督はこの結果を予想していた。その上で、ネット上の核が全て消滅しなければ見ることのできないムービーが挿入されているのが、監督のいやらしさ(何度も言うが褒め言葉)を更に増長させている。

ネット上の全ての核を廃棄したとき、とあるムービーを見ることができる。今となっては正規の手段でそのムービーを見ることはほぼ不可能だが、データをサルベージした動画がYouTubeにあるので気になる方は見てみるといい。このムービーを見ているか否かで、エンディングでのスネークの行動の意味が大きく変わってくる。

エンディングで印象的なのが、鏡に写る自身を拳で叩き割り、闇へと歩むスネークの姿だ。核廃絶のムービーを見ていなければ、ビッグボスに真相を聞かされ、自身が偽物であることを知り、それに怒りを露わにするスネークの姿に見えただろう。しかし、核廃絶ムービーを見ているとこのエンディングは大きく意味を変える。

核廃絶を見た後、そこには復讐に燃えていた自身の鬼を叩き割り、世界を存続させるために身を捧げる一人の男の姿がある。全く同じエンディングのムービーでありながら、その行動の指す意味は核廃絶のムービーを見ているかで大きく変わるのだ。

監督はプレイヤーがどのような道を辿ったかによって行動の持つ意味が大きく変わるように仕掛けていた。これはゲームにしかできない演出だ。

小島監督はプレイヤーとスネークを密接にし、プレイヤーの感情とスネークの行動が同調するように演出を計算していた。そして、核廃絶に辿り着くことのできなかった多くのプレイヤーが、復讐に燃えるスネーク、つまりは自分自身を見、そしてそんなあんまりなエンディングに激昂するプレイヤーの声がネット上に溢れることになったのだ。その声そのものがヴェノム・スネークの声であることも知らずに。

総評
総じてMGSVというゲームは、ゲームの域を超えて芸術と文学を秘めたとんでもない傑作だと言える。ほとんどのスネーク(プレイヤー)はエンディング後も怒りに燃え、ネットにステージを変えて怒りを撒き散らした。しかしMGSVという作品とはそうした声がネットにこだますることで完成する。何故ならこれはあなたの痛みの物語だからだ。あなたのファントムペインがネットを彩り、MGSVは誰にも到達することのできないゲームへと昇華した。

MGSVの未完成の話の裏側は知る由もないが、だから今作品が凡作だというのは大嘘である。

何度も言った通り、スネークとは我々自身だ。ヴェノム・スネークがビッグボスの記憶を催眠によって追体験して生まれたもう一人の蛇であるように、蛇はMGSシリーズに何匹も存在する。
遺伝子操作によって産まれたソリッド、リキッド、ソリダス。
VRというデジタル技術によってシャドーモセス事件を追体験し、ソリッドと同等の力を持たせることを目的に生まれた雷電
そしてそれら物語を追ってきた我々も蛇なのだ。
ビッグボスが最後に、これからはお前がビッグボスだと言う台詞は、なにもヴェノム・スネーク(プレイヤー)を納得させるために用いた苦し紛れの言い訳なのではない。
我々は間違いなくスネークの強さ、弱さ、痛み、悲しみを追体験してきた、新たな蛇なのである。

だからMGSVが未完成のように見えてもそれは不思議ではない。蛇(プレイヤー)の物語は今も続いている。それがどのような行動をもたらすかは、ヴェノムが消えた闇のように不鮮明だ。それは蛇の数だけ存在している。

今作をもって小島秀夫という鬼才が手掛けるMGSシリーズは終わる。そのフィナーレを飾るMGSVは尻切れとんぼのようでならないかもしれない。

だがそれでいい。

綺麗に終わる必要などどこにもない。ましてや蛇はまだ生きている。わたしたち・・・

シリーズを通してMGSとは、ゲームという科学と技術を駆使して現実へと蛇を投射するための、小島秀夫による恐るべき子供たち計画だったのだ。

これ以上のSF体験、ゲーム体験をさせてくれるものが、いったいどこにあるというのか。