量子的裂け目こそ因果律

映画や小説の感想をあくまで私個人の視点からまとめています。

【感想】あなたのための物語

「物語だらけね、街は。人間を支えてくれるイメージや物語でいっぱい。みんな、物語を信用できなくなって、苦しくなーれ」

 上記の台詞は、不治の病を患った主人公、サマンサ・ウォーカーが悲惨な現実を強制的な感情操作によって、歓喜を帯びながら世界へと放った呪いの言葉だ。ネガティブから抜け出そうと、必死の思いで操作した感情は、ポジティブな怨念となって街へと消えた。今作品は、人間と人工知能の恋慕という、過去に擦り切れるほど扱われた設定に目を引かれがちだが、この物語の真髄は病に冒された人間の惨めさ、儚さに満ちた生活の圧倒的なリアルさにあると私は感じている。

 死を感動的に描いた作品は、小説や映画に限らずに世界中に氾濫している。彼らには常に寄り添ってくれる恋人や家族がいた。その方が物語は展開しやすく、視聴者の共感を得やすいし集客も見込める。だがそうした作品が良いものであるかは別の話である。

 この物語の主人公、サマンサ・ウォーカーは冒頭に不治の病を患うことになるのだが、彼女には上記の共感的映画の人物たちと違って、恋人も子どももいない。家族は田舎に住む父親と母親だけだ。だから劇中で、彼女の不遇な運命を共に悲しんでくれる人物は驚くほど少ない。彼女はたった一人、いつも通りの生活の中で徐々に衰弱し、人並みにできた当たり前のことができなくなっていく時間を孤独に受け止めていかなければならない。だからこの物語の悲しみは、恋人が結ばれない運命という悲劇ではなく、一人で病んでいくことを受け入れなければならない、誰にでも起こり得る、幾多の街の片隅で起こったであろう一般的な悲劇だ。だからこの物語は、急に超人的な力に目覚めるアメリカンヒーローといった我々の生活からは程遠い夢のような話はではなく、我々でも経験するかもしれないレベルの悲劇なのである。
 私はこれに痛く感銘を受けた。この作品にはほぼ恋愛と呼べる要素はない。しかし、この物語を読み進めるにつれ、誰かとの繋がりを求める自身に気がついた。たった一人で消滅へと向かうことの恐ろしさったらなかった。気が付けば私は、この物語を自分ごとのように眺めていたのだ。

 今日において、結婚に大きな価値を見出せない人は珍しくない。私もそうした考えが少なからずある。楽しもうと思えば1人でいくらでも楽しめる時代だ。そうした自己完結型の思想はもはや何も珍しくはない。だが私は、どうやら考えを改めなくてはいけない。
 どれだけの功績、富を築いたとしても、死という圧倒的な絶望を前にしては、どちらも霞んで消えてしまいそうに思ってしまった。もし私が死を目前にしたとき、そのとき隣には誰がいるのだろうと考えてしまっていた。このとき、人との繋がり、恋愛、結婚といったものが急に身近なものへと変わっていた。人との繋がりが、これほどにまで死と密接だったことに驚いた。

 この物語は最後、このような言葉で締められる。

 こうして、サマンサ・ウォーカーは、動物のように尊厳なく死んだ。

 これこそが、我々皆が所有する死の正体なのだ。どれだけの成功者といえども、死の前では全てが動物なのだ。どんな強固な意思をも跳ね返す、圧倒的な自然の摂理なのだ。

 残念ながら動物である限り、死を乗り越えることはできない。それは、所詮は人間も動物であることを意味する。そのとき、動物である私たちに許された数少ない、そのあんまりな現実を少しでも和らげる方法があるとするなら、それはあなたの隣にいる誰かの存在なのかもしれない。
 何故なら、この絶対的な悲劇を和らげてくれるものは、共感だけだからだ。私の死を悲しみ、共に涙を流してくれる人だけだからだ。1人でも生きていけるという言葉には、今後は気をつけて向き合わなければならないだろう。孤独でもいいと、半ば諦め気味に発する人間はこれまでに一度でも死を意識したことがあるのだろうか。

 生きているという、長い夢のような時間はいつかは終わりを告げる。そしてもう、目覚めることはないのだ。

 我々は常に死と共にある。

【感想】シン・エヴァンゲリオン~そして虚構は現実へと還ってゆく~

 前作のQから8年越しのシリーズ完結作。間にシン・ゴジラを撮ってファンから叩かれたり、ガイナックスと揉めたりと、何かとトラブル続きで不安を抱えながら公開された本作。Qであんな終わり方をしてどうやって物語を畳むのか、悪い意味でドキドキする反面、シン・ゴジラでバキバキのポリティカルをやってのけた庵野映画となると期待しないわけにはいかんでしょう。そしてそんな不安は杞憂でした。ファンは観て然るべし。

 まず、この映画はシンジとゲンドウの壮大な親子げんかです。世界を犠牲にしてでも自身の望みを叶えようとするゲンドウは、ハリウッド映画のステレオタイプな悪人になってしまいましたが、元よりエヴァとは一貫して社会から距離を置きたい人間のどうしようもないモラトリアムのような作品なので、今更気にしても野望ってもんです。それにしても、自分が望むままの世界を創るために世界を犠牲にするなんて、擦り切れるほど使い古された設定を今風に調理した庵野監督の手腕は賞賛に値します。

 つまるところこの映画のゲンドウは、自身の嗜好に合わせてくれない社会を拒絶する大人になれなかった大人であり、映画冒頭のシンジくんを現在進行形で続けている筋金入りの駄々っ子なのです。父親よりも早く社会へと踏み出す勇気を得たシンジ君は未だに自身の中へと引きこもるゲンドウの暴走を止めようとするのがこの映画なのですが、このときの戦闘シーンは特に見どころ満載。
 戦場の第3新東京はまるで特撮のセットのような作り物で、ミサトさんの部屋で槍をぶん回したり、撮影スタジオからはみ出したりと、とにかく作り物の空間を演出し続けるのです。人が作り出した空間とは、逆説的に人の想像の範疇からはみ出す事象が起きない世界であり、世界中に氾濫する物語といった虚構を指しています。
 全てを思い通りにできるようになったゲンドウは、物語を編む小説家であり、映画を撮る監督であり、作家なのです。つまるところ思い通りに創られた世界とは虚構と同義であり、現実との境界線を曖昧にしてしまいました。父の内なる想像の世界と現実世界の交差点で戦うシンジ君は、必死にもうやめてくれと父へ叫ぶのですが、私はシンジ君が未だに恥ずかしい青春を引きずりまくる親を諭す子どものようで、何とも体中が痒くなる思いでそれ観ていました(笑)

 物語の最後、シンジ君はアスカやレイ、カヲル君を助けだしたあと、一人砂浜に座り込んで海を見つめながら、徐々に原画へと戻っていくのですが、私はこのシーンに大変感動してなりませんでした。虚構(創造=想像の世界)は終わりを告げ、徐々に現実へと還っていくことを原画にすることで演出するという人間の想像力の海のような広大さ、そしてその偉大さは決しては内面へと引きこもるための手段ではなく、外へとアウトプットすることで真価を発揮する力だと言っているからです。
 だからシンジ君は最後、マリと共に階段を駆け上り、社会へと踏み出して行くのです。彼らは一度虚構へと逃げ、そしてまた現実へと還るのです。そこには、ミサトさんに誰かのためではない、自分のために行けと言われて立ち向かうエヴァ破のシンジ君の姿はなく、誰かのために立ち上がるかつて少年だった者の小さな勇ましさがありました。

 かつてエヴァに夢中になった、学校で共感や親しい友人を得られず、内側に広がる空想の世界を広げ続けたエヴァンゲリオンたちへ。さよなら全てのエヴァンゲリオン。今度はその広げ続けた内面を外側へ、社会へと向けて解き放ってみようよ。その力で君は何にでもなれるのだから。これからの君、いや私たちは新世紀・・・NEON GENESIS EVANGELION

 エヴァはモヤモヤした終わり方じゃないと納得しないという人は、もう一度アニメ版から旧劇版、新劇を最初から観なおして本作を観ることをおすすめします。

 本作の最後、ホームの階段を駆け登る、進研ゼミの付録にある漫画の最後みたいな終幕こそが最も相応しいと思えることでしょう。

メタルギア ソリッドV ゲームの域を超えた傑作

  • メタルギアソリッドの名を知らない人はこのページを見ようなどとは思わないだろう。だからここでメタルギアソリッドシリーズが何かという話は全て省く。ここで語るのはメタルギアソリッド5(以下MGSV)とは何を描いた作品だったのかというのを、私の視点でまとめたものだ。なので今批評は多量のネタバレを含んでいる。

なぜそんなものを書こうかと思ったのかと言うとMGSVが描く優れた芸術性が余りに謙虚であるためかそれに気づく人が少なかったからに他ならない。MGSシリーズを手がける小島秀夫監督という人物もとても謙虚で、彼のツイッターや書籍を見て思うことは、他作品を褒めることはあっても批判は一切しないという印象だ。そのことに関しての良否は意見が別れるだろうが、重要なのは、果たして小島監督の内側には本当に他作品への否定的な感情がないのだろうかという部分にある。答えを言えば、必ずある。でなければこんな作品は描けない。ネットの評判を見てみると「未完成」「唐突に終わる」といった評価が散見されるが、結論から言うとこの2つの評価はMGSVの価値を落とすに値しない。それどころか今作品を昇華する要素にすらなっている程だ。

MGSシリーズを好評するプレイヤーの言葉に多いのは「映画みたい」「ストーリーが面白い」というのが多いが、それは間違いではない。しかしここに小島監督のいやらしさがある。上記の感想はかなり漠然としたものだが、多くの人が映画やゲームで重要視しているのは主に漠然としたその2つなのだ。そして、そうした人がMGSの描く奥底に隠された芸術性にまで視点が届くことはあまりない。だがMGSVはそうした表面上の快感原則に留まるような作品ではないこともまた事実である。

ここから分かることは、恐ろしいことに小島監督は作品の表面に描かれている「映画のような」「ストーリーが面白い」という快感原則のみに従う人々も、芸術性や文学性を欲するあまり、自ら深淵に足を踏み入れることを良しとするような人間すらも巻き込んでしまう、非常にいやらしいゲームを作っているという事実だ。

そしてそれは必要なことだった。

MGSVとは、作品の表面しか見ていない人間も、その奥底に潜む文学性を見出す人間の両方が手にとって、初めて完成する作品だったのだから。

"ヴェノム・スネークとプレイヤー"
主人公はプレイヤー自身というのは昨今のゲームにおいては既に珍しいものではない。だが、実際のところ主人公は自分自身なのだと信じて画面上のキャラクターを操作しているプレイヤーは非常に少ない。ネットに並ぶ感想を見ているとそれがはっきりとしている。というのも、主人公の視点で作品を語っているレビューなどまず見ることがないからだ。そしてそこには、物語の主人公とそれを操作するプレイヤーの乖離、決して混じることのできない境界線がいくつも存在していることに気付かされてしまう。

ならMGSVのヴェノム・スネークはどうだったのか。結論から述べると、ヴェノム・スネークとプレイヤーはこれまで世に出てきたどのようなゲームよりもプレイヤーとシンクロしている。我々の想像を遥かに超える驚くべき手法によって。

ヴェノム・スネークが劇中で感情的になったり、自身の考えを話すという描写は驚くほどに少ない。これまでのMGSシリーズにあった、無線でベラベラと話すスネークの陽気な一面を知っていれば、ヴェノム・スネークの沈黙は違和感を感じただろう。しかし彼はしっかりと感情を露わにしている。その描写はどこにあったか?

実は彼が感情や思考を巡らせている瞬間とは、それを見ているプレイヤー自身が感情的、思考を巡らせていたときのみにある。コードトーカーとの会話の中、ヴェノム・スネークが自身の考えを述べるシーンは全くない。だがこれは、プレイヤー自身が感じたことがそのままヴェノム・スネークの思考になるように狙って演出されているのだ。

離別の声が記録されたクワイエットのテープ。妄想でしかなかったパスの生存。そのどのシーンにもヴェノム・スネークが感情を露わにするシーンは存在しない。それらイベントに何を感じたのか。それはプレイヤーに委ねらるように演出されている。

重要なのは、ヴェノム・スネークとは我々プレイヤーの分身などではなく、我々自身だという点だ。

MGSVの物語の真価はこれを理解していることが最低条件にある。これを理解していることで、ムービーシーンの一つ一つが大きく意味を転じることになる。

"ファントムペインとは何か"
副題でもあるファントムペイン幻肢痛と言われるこれは、実際に戦闘で負傷した兵士に見られる症状だ。例えば、地雷を踏んで膝から下がまるごと吹き飛んでいるにも関わらず、脚ではなく足の指が痛いと呻く患者が多数いた。救護員はその痛みをどうにかしてやりたいのだが、指どころか膝から下が全てないのだからどうすることもできなかったという。存在しないものに痛みを感じることに因んで、それは幻肢痛と名付けられた。

MGSVにおいて、幻肢痛は作品のテーマに大きく関わっている。腕を失くしたミラーは腕の痛みを訴えている。だが、小島監督が秘めたファントムペインの真意とは、腕を失くしたミラーやスネークの域に留まらない。真に幻肢痛を感じていたのは我々自身なのである。

MGSVとは虚構である。創られた物語であり、登場人物も実在しない。にも関わらず、私たちはこのMGSVから痛みを感じずにはいられない。

クワイエットが永久に離脱したとき、大きな悲しみが私を襲った。
ビッグボスから真実を告げられたとき、大きな怒りを感じた。
スカルフェイスを打倒し、その次に何が起きるのかと構えていたものの、復讐の先には何も(物語が)ないことを悟り、大きな不満を感じた。
クワイエットもビッグボスもスカルフェイスも虚構であるに関わらず、私の内には激しい感情の奔流が迸っていた。
つまりファントムペインとは、復讐を果たしたヴェノム・スネークの虚無感や喪失感、更にはこのゲームを遊ぶ我々プレイヤーが感じていた痛みそのものを指している。
小島監督は明らかにそれらを狙って製作している。彼の目論見通り、ネットにはMGSVに不満を募らせたプレイヤーのファントムペインの叫びで埋まった。それはこの商品のレビューを見てもらえれば存分に分かるだろう。

これらを見ているとMGSVがゲームとプレイヤーの境界線を取り払い、メタ要素をそれと気付かせないような努力で満ちていることがとてもよく見えてくる。虚構そのものが現実に生きる我々に介入してくる様は、まさに至極のSF体験と言えるだろう。そうとは知らずにファントムペインに悶え苦しんでいたプレイヤーほど、知らず知らずに極上のSFを体験していたことになる。

"核兵器が抱く魔性"
人は過剰なパワーを求めずにはいられない。今作では核兵器の作製が可能となっており、プレイヤーはそれを奪い合い、破棄するか、作製するかの選択を委ねられる。ゲームにおいて核兵器はプレイヤーにどのようなメリットをもたらすか?
MGSVを遊んだ方なら知っているだろうが、何もメリットはない。使用することもできないし、破棄か作製の二択しか存在していない。
事実、現代において核兵器とは作製されることはあっても使用することは許されないというギャグのような兵器である。もし核兵器をぶっ放す国が現れたとすると、その国はその他190カ国以上ある世界全てを敵に回すことになるだろう。

MGSVにおいてもそれは同じで、作製と破棄をすることはあっても発射の選択肢は存在しない。そもそもスネーク率いるダイアモンドドッグズに国単位の敵など存在しない。敵はアメリカという国の、サイファーという組織から分裂したXOFというスカルフェイス率いる非公式組織なのだから、戦略的に核兵器など何の役にも立たない。

では、それが分かっていた上でプレイヤーはどういう選択をしたか?

実は多くのプレイヤーが核を持ち、大量の核兵器がネット上で作製され続け、その数は数億個に及び増え続けたのだ。

世界中のプレイヤー(ヴェノム・スネーク、つまりは復讐の鬼)は行使することもできない過剰なパワーで武装することに何の躊躇いも見せなかったのである。

これは小島監督のいやらしい側面(褒め言葉)が最も如実に現れた部分である。MGSVというゲームを用いて、使用が許されない過剰な力を持つ自由を個人に与えると人はどのような選択をするのかというのを見たがった、小島監督の社会的実験である。よくもまぁこんな事を考えたものだと感心してならない。

小島監督はMGSシリーズを通して核兵器が孕む抑止力の幻想や、その危険性を痛烈に批判し続けている。だがMGSVを通して、核兵器の増大を止めることなどは不可能だったのだと、皮肉にも自ら証明した。そしておそらく小島監督はこの結果を予想していた。その上で、ネット上の核が全て消滅しなければ見ることのできないムービーが挿入されているのが、監督のいやらしさ(何度も言うが褒め言葉)を更に増長させている。

ネット上の全ての核を廃棄したとき、とあるムービーを見ることができる。今となっては正規の手段でそのムービーを見ることはほぼ不可能だが、データをサルベージした動画がYouTubeにあるので気になる方は見てみるといい。このムービーを見ているか否かで、エンディングでのスネークの行動の意味が大きく変わってくる。

エンディングで印象的なのが、鏡に写る自身を拳で叩き割り、闇へと歩むスネークの姿だ。核廃絶のムービーを見ていなければ、ビッグボスに真相を聞かされ、自身が偽物であることを知り、それに怒りを露わにするスネークの姿に見えただろう。しかし、核廃絶ムービーを見ているとこのエンディングは大きく意味を変える。

核廃絶を見た後、そこには復讐に燃えていた自身の鬼を叩き割り、世界を存続させるために身を捧げる一人の男の姿がある。全く同じエンディングのムービーでありながら、その行動の指す意味は核廃絶のムービーを見ているかで大きく変わるのだ。

監督はプレイヤーがどのような道を辿ったかによって行動の持つ意味が大きく変わるように仕掛けていた。これはゲームにしかできない演出だ。

小島監督はプレイヤーとスネークを密接にし、プレイヤーの感情とスネークの行動が同調するように演出を計算していた。そして、核廃絶に辿り着くことのできなかった多くのプレイヤーが、復讐に燃えるスネーク、つまりは自分自身を見、そしてそんなあんまりなエンディングに激昂するプレイヤーの声がネット上に溢れることになったのだ。その声そのものがヴェノム・スネークの声であることも知らずに。

総評
総じてMGSVというゲームは、ゲームの域を超えて芸術と文学を秘めたとんでもない傑作だと言える。ほとんどのスネーク(プレイヤー)はエンディング後も怒りに燃え、ネットにステージを変えて怒りを撒き散らした。しかしMGSVという作品とはそうした声がネットにこだますることで完成する。何故ならこれはあなたの痛みの物語だからだ。あなたのファントムペインがネットを彩り、MGSVは誰にも到達することのできないゲームへと昇華した。

MGSVの未完成の話の裏側は知る由もないが、だから今作品が凡作だというのは大嘘である。

何度も言った通り、スネークとは我々自身だ。ヴェノム・スネークがビッグボスの記憶を催眠によって追体験して生まれたもう一人の蛇であるように、蛇はMGSシリーズに何匹も存在する。
遺伝子操作によって産まれたソリッド、リキッド、ソリダス。
VRというデジタル技術によってシャドーモセス事件を追体験し、ソリッドと同等の力を持たせることを目的に生まれた雷電
そしてそれら物語を追ってきた我々も蛇なのだ。
ビッグボスが最後に、これからはお前がビッグボスだと言う台詞は、なにもヴェノム・スネーク(プレイヤー)を納得させるために用いた苦し紛れの言い訳なのではない。
我々は間違いなくスネークの強さ、弱さ、痛み、悲しみを追体験してきた、新たな蛇なのである。

だからMGSVが未完成のように見えてもそれは不思議ではない。蛇(プレイヤー)の物語は今も続いている。それがどのような行動をもたらすかは、ヴェノムが消えた闇のように不鮮明だ。それは蛇の数だけ存在している。

今作をもって小島秀夫という鬼才が手掛けるMGSシリーズは終わる。そのフィナーレを飾るMGSVは尻切れとんぼのようでならないかもしれない。

だがそれでいい。

綺麗に終わる必要などどこにもない。ましてや蛇はまだ生きている。わたしたち・・・

シリーズを通してMGSとは、ゲームという科学と技術を駆使して現実へと蛇を投射するための、小島秀夫による恐るべき子供たち計画だったのだ。

これ以上のSF体験、ゲーム体験をさせてくれるものが、いったいどこにあるというのか。

感想 美亜羽へ贈る拳銃

 ※ネタバレ注意

 美亜羽へ贈る拳銃は、伴名練著”なめらかな世界と、その敵”の短編だ。伴名練氏がどのような人物であるかを端的に述べると、伊藤計劃氏の遺志を誠実に受け継いだ著者である。かくいう私も伊藤計劃氏を絶大に支持する人間なので、伴名練氏の著物に惹かれてしまっても何も不思議ではない。
 伊藤計劃氏は、小島秀夫監督の大ファンであり、メタルギアソリッド4の小説版を担当したが、これが大変素晴らしい作品だった。つまり、本当にその作品が好きなファンというのは、その作品の芸術的な視点まで鋭く見抜いてしまうのだ。現に伊藤計劃氏は、ファンには不評なMGS2を「こんなものを喜ぶのは俺くらいだ!」と絶賛している。事実MGS2小島監督作でもかなり切れ味の鋭いポリティカルなSFとなっている。
 伴名練氏は、伊藤計劃氏へのトリビュート”フランケインシュタイン3原則あるいは死者の簒奪”という傑作も記している。そして今記事で紹介する"美亜羽へ贈る拳銃"も伊藤氏へのトリビュートなのだが、”フランケン”と並ぶ傑作だと胸を張って言えるだろう。

 ”美亜羽へ贈る拳銃”がどのような作品であるかというと恋愛モノである。なので非常に取っつきやすいと思われるかもしれない。なぜなら恋愛とは殆どの人間にとって不可避であり、誰もが想像しやすく感情移入しやすい物語だからだ。映画館に、病に引き離されるカップルが毎年のように召喚され続けるのはそうした背景がある。だから私は恋愛映画や小説が非常に苦手だ。”天気の子”を見て気分を害し、有川浩氏の”塩の街”を読んで速やかに本を閉じた経験がある。恋愛モノが嫌いなわけではない。ただ気持ちの良いだけの物語を、まるで文学的で芸術的であるかのように記された創作物からはなるべく距離を置きたいと考えている。だが”美亜羽”はただ気持ちの良い恋愛には収まらない。物語の緩急をつけるために用意された恋のライバルなんて者もいない。これはSFの視点から人間の感情の複雑さを見事に描いたメロドラマなのだから。

 ここからは考察になるのでご注意を。

 美亜羽へ贈る拳銃とは、何を描いた作品であるかというと、本人すら正確に認識できない心の複雑性を描いた物語だと言える。実継は脳を改変された美亜羽を愛せないことに苦悩し、改変前の美亜羽は決して成就しない恋慕に苦悩する。実継は改変後の美亜羽をどうしても好きにはなれないというし、改変前の美亜羽はどう考えても実継を好きになることはないという。しかし最終的に二人が結ばれたことは、物語を素直に読んでいれば当然に分かる。これは実継が改変後の美亜羽に対して誠実に向き合った結果ともとれるが、この物語はそう一筋縄にはいかない。
 一つずつ整理しよう。改変前の美亜羽は本当に実継に恋愛感情が無かったのだろうか。答えはノーである。既に美亜羽は実継に惹かれていた。でなければ美亜羽は、自身の脳を壊してまで実継と結ばれるように願うはずがないからだ。何なら実継に接触しようとも思わないはず。これは、改変後の美亜羽を愛するために自身にWKを使用した実継の行動から分かる。では実継は本当に改変後の美亜羽を好きではなかったのか。これもノーである。でなければ婚約すらしていない女性のために脳を壊すなんてことはしない。
 この物語は二人がどれだけ愛し合わなかったかという始まり方をするが、真っ赤な嘘である。二人は初めから相思相愛だった。しかしその相思相愛が物語で明確にされる描写は一つもない。ここに伴名練氏の優れた作家性がある。

 関係性というのは、特に恋愛関係であればはっきりしてほしいというのが読者の要望だろう。数多の作品で、キャラクターのカップリングが論争されるのはそうした背景がある。だが、伴侶練氏は最後まで二人の関係性をボカした。これは、登場人物すらも己の真意に気が付くことができないというこころの複雑性を表現している。まるで夏目漱石のこころのようだ。だから、美亜羽へ贈る拳銃は、大事なところは語られない。しかし、物語に真摯に向き合えば、当初から相思相愛の物語であったと明確に理解できる。

 この物語は”きみがこの物語の結末なのだから”という一文で終わる。きみとは誰なのだろう。もう分かるだろうが、実継と美亜羽の子どもだ。二人には子がいる。どうしようもなくSF的冷淡さを孕みながら、これほど胸を温められる物語。あけすけな恋愛模様を描いた物語では到底辿り着くことのできない幸福が、美亜羽へ贈る拳銃には込められている。